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山月記

□だらたまご 2024/4/26 「李徴に学ぼう【読書】」

 山月記、誰もが知っている文学という感じではあるんでしょうけれども、なんだかんだで
 今に至るまで触れてこなかったみずちです。
 というか実は最近地味に蟹工船を読んだり変な家を読んだりと読書に勤しんでいるけども
 まあめっちゃ楽しんだ変な家で感想ってなんかネットでよくある考察になっちゃうし、
 蟹工船に関しては日本に対するめちゃくちゃ強い言葉が出そうなので自重。

 まあ今回は、読書感想文という形で堅苦しく書くのではなくさっくりと。
 作品としては、もう多くの人が知っていると思うので今更説明するまでもありませんが、
 李徴という男が詩家として名を残そうとしつつも文名が揚らず苦しみ、挫折の末に都で
 自分が見下していた人間に傅かねばならないという状況に自尊心を傷つけられ、結果
 発狂し行方知れずとなった。
 その後、とある「人食い虎が出る」という道を通ろうとした男が、そこで一頭の虎に
 会うのだが、その虎が他でもない、その男の旧友であった李徴で、男と虎になった李徴が
 いろいろと話をしていく、みたいなものなんですが。
 そこで李徴の話していた話で、私はそういった才能に恵まれている人間ではなかったので
 一致というわけではないにしろ、何か似たような物を感じました。
 それが何というか、自分が「やれば何でもできる」という万能性を持ち、それを根拠と
 した強い自尊心を持ち、人と関わることを良しとせず、謎の自信ばかりを持ち続けたまま
 一時期は「〇〇の人」として認知されていたそれらをすべて失い堕ちていったという点で
 何か近いものを感じたのです。
 尤も、李徴はその上でずっと詩への想いを持ち続けていたのに対し、私はその挫折の末に
 それらに対する情熱すら失ってしまい、畜生に堕ちるに至らない半端者ではありますが。
 しかしこれを読んでいてふと思ったのは、「畜生に堕ちることはなかったとしても、この
 李徴のように発表する手段を失ったら私はどうなるのだろうか」という点。
 李徴はそれでも詩への想いを捨てられず、虎になって旧友に再会し、自身の詩を残すのを
 家族のことより優先するほどであったのに対し、私は絵で名を成すことを一時期は志して
 本気で向き合っていた過去がありながら、ある界隈との断絶、自身の一次創作への固執、
 馴れ合いの拒否、そうしてやがては誰からも見向きもされなくなり、こうして誰が読むか
 わからぬままに個人サイトで何かしたり伸びもしないYouTubeで動画を上げたりしていて
 私は絵ではなく「創作者である自身」を捨てられず、それに加え「万能であるという事を
 自認し自己肯定した末の尊大な自尊心」に囚われている点において、何か李徴のことが
 完全な創作上の人物の話とは思えないのです。

 さて、それでは私は何をすべきなのか。
 李徴は『己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、
 堂々たる詩家となった者が幾らでもいる』と語っていました。
 これもまた、自身がさして努力を必要とせずしてある程度まで至ることができる自信が
 ありつつも、それが絶対の自信ではなく、優れていると言えるほどの実力がないことを
 心の中では分かっているがゆえに『口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の
 不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだった』と
 いう一文に似たような逃げを続けてきていたような気がします。
 そういった意味では、こうして誰が見るわけでもない箱に籠ったままに、壁打ちのような
 創作をただ続け、誰かとなれ合うこともしないままの自分では、やがて虎になりいよいよ
 自信を見失ってしまうのではないか。
 そんな漠然とした不安が、心の片隅を掠めていくのです。

 誰かと切磋琢磨し、自身の才能の有無と正しく向き合い、研鑽し続けるという、ある意味
 当然のことをできるのかどうかが大きいのかなと思います。
 こうならないためにも、変な格好つけばかりではいけないのかな、というのが、山月記を
 読んだ最終的な感想でした。


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