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『自業自得』
訃報が届いたのは、金曜日の仕事終わり、親友と二人で居酒屋に行き、ビールのジョッキをカツン、とぶつけた時だった。 亡くなったのは私の母方の祖母の妹、大叔母にあたる人だった。私がまだ小さい頃は祖母と仲が良く、毎年お正月にはお年玉をくれたり、誕生日にはプレゼントをくれたり、とにかく親切にしてくれた記憶がある。大叔母には子供がおらず、早くに夫を亡くしていたので、大姪である私が可愛くて仕方がなかったのだという。しかし、私が小学校に上がった頃に、理由は知らないが祖母と大喧嘩をして絶縁、それっきり、大叔母がどうなってしまったのか、私は知る由もなかった。 その訃報の届き方も、正直不気味でしかなかった。母からのメールには、「叔母さんが亡くなったらしくて、宝石取りにこいってさ」とあった。とてもではないが、人が亡くなったことを知らせるものではない。大叔母が何をしたのかは知らないが、少なくとも大喧嘩をした祖母のみならず、母からも嫌われていたのはその文面だけでわかった。人が亡くなって、それを悼むでもなく「宝石取りにこい」という言葉が出てくるのは、もはや人間として見ていないのだろう。私には優しかった大叔母の記憶しかなかったし、何が理由で絶縁したのかも全く聞かされていなかったので、ただそんな母のメールが、すごく悲しかったし、少しばかり腹立たしく感じた。 そうは言いつつも、正直悲しくはなかった。あくまで幼少期の想い出しかないし、92になる祖母の妹だ、おそらくはそう変わらない年齢だろうし、そうであれば大往生だ。母や祖母の感情は知らないが、私にとってはその宝石は形見となるのだし、懐かしい大叔母の面影を感じることができる。複雑な感情を抱きながらも、私は親友に「何でもない」と告げ、その日は飲み会を楽しむことにした。 翌日、母が私のアパートまで車で迎えに来て、祖母の家まで二人で行くことになった。父は来なかったが、今回のこの行動自体が死者を悼むためのものではないし、そもそも父はちょうど海外出張中で予定が合わなかったのだという。確かに、この状況で無理やり帰ってこい、という事もないのだろうなと、なんとなく私は思った。 祖母の家に行くと、祖母が昔と変わらない笑顔で迎えてくれた。久々の再開で嬉しくはあったが、その背景に複雑な感情が渦巻いているのがありありと見えるような気がして、素直に喜ぶことはできなかった。 今に案内されると、机一杯にいろいろなアクセサリーが並んでいた。金、プラチナ、シルバーの貴金属類に、ダイヤ、ルビー、サファイア、オパール、とにかくいろいろな宝石があった。思い返してみれば、大叔母は常に大量のアクセサリーを身に着けていた。普通に考えて一般人が集めるのはほとんど不可能であろうと思えるほどの量のアクセサリーを見て、私は少し嫌な気分になった。絶縁し音信不通になっても、亡くなってすぐに葬式などの話もなく、これらの高級なアクセサリーだけは、形見分け、という言葉さえも使わずに山分けしようというのが、すごく嫌な人間に成り下がった気がしてどうにも不愉快であった。 アクセサリーは祖母と、母と、そして私でそれぞれが3等分になる程度に分けられた。祖母も母も本当に気に入った物だけは手元に残しつつ他は売却し現金化すると言っていたが、私はそうする気はなかった。実際、私がアクセサリーの類をほとんど持っていないというのもあるが、それ以前に、大叔母の形見をただの高級品としてしか見ていない母と祖母が、なんだかとても卑しい人間に思えたから、というのが最大の理由であった。 結局私がもらったのは、指輪やネックレス、ブレスレット等合わせて40品目ほど。安物と思しきものは一つもなく、売却すれば数百万、あるいはもっと行くかもしれないほどのものばかりだ。それほどの物を大量に所持していた大叔母が一体どういう立場の人間だったのかがとても気になったが、母も祖母もこの家に入ってからただの一度も大叔母のことを話題に上げることはなく、それを聞くことはできなかった。 不気味な会合の後、妙な後味の悪さを感じながらも母にアパートまで送ってもらい、部屋に戻ってもらってきた大量のアクセサリーを机に並べてみる。18金の喜平のネックレスに、2カラットくらいはありそうなダイヤモンドの指輪。大きなサファイアの周りに小さなダイヤが無数に散りばめられたプラチナの指輪、とにかく一つ一つが明らかに数万円では買えない高級品ばかりだ。私の今の稼ぎでは、これらの中のたった一つでも買うことはできないだろう。大叔母の形見というだけで充分に大切な物ではあるが、嫌な話、こんな高級な宝飾品を私が着けることができるというのは、正直嬉しくはあった。 数あるアクセサリーの中でも最も嬉しかったのは、高級な金の指輪でもなく、巨大なダイヤモンドの指輪でもなく、琥珀のペンダントヘッドだった。いわゆる虫入り琥珀というもので、正直貰ったアクセサリー類の中ではとびぬけて安いものだ。しかし、ほかのどれよりも魅力的に感じたし、何より、この琥珀のペンダントヘッドは大叔母の一番のお気に入りで、この中に入り込んでいる虫のことが気になって、小さい頃の私がしつこく何度も見せてもらっていた思い出の物だ。そもそも貧乏性な私は普段からそんなに高級なアクセサリーを身に着けることはできそうもないし、どうせ形見として身に着けるのならば、大叔母が最も愛していたものを着けていたかったのだ。 他の宝飾品は買うだけ買って使っていなかったジュエリーケースに綺麗に並べて収納し、琥珀のペンダントヘッドだけ、革紐をつけて普段から首に掛けることにした。 それからしばらくの間、私は毎日琥珀のペンダントをつけて過ごしていた。ただのペンダントではあるが、不思議とあの頃の優しかった大叔母がすぐ近くにいるような気がして、とても心地よく毎日を過ごせるようになっていた。最近は仕事も辛く、いますぐに投げ出してしまいたいとさえ思っていたのに、どういうわけか、このペンダントを身に着けるようになってから、嫌なことも感じないというか、そもそも嫌な事自体が起きなくなっていた。まるで、大叔母が嫌な事からずっと守ってくれているかのように、毎日がとても充実し始めてきていた。もちろん、それはプラシーボ効果なのかもしれないが、それでも、私にとって大切だった大叔母の遺品は、私にそっと寄り添ってくれるように私の心を明るく照らしてくれていた。 正直、貰ったアクセサリーをすべて売ってしまえば転職先を探すまでに困らないほどのお金は入ってくるだろう。しかし私はそれより、はるか昔に縁が切れてしまった大叔母の存在を感じられるそれらのアクセサリーを手元に残すことを選択した。そしてそれは、間違っていなかったのだと確信を持って言える。気のせいだとは思わない。大叔母がずっと身に着けていたこの琥珀のペンダントは、今、私に幸福をもたらしてくれるのだ。 そうして楽しく過ごしていた数日後、母から電話が入った。何かひどく怯えたような声で、母は早口で私に現状を説明してきた。なんでも、アクセサリーを貰ってきてからその翌日には半数ほどを売却したらしいのだが、それからひたすらに不運が続いており、それどころか、毎日悪夢を見たり、いくつか手元に残したアクセサリーを着けたときにその着けた場所を何らかの形で――ごく経度ではあるが――負傷したりするということであった。そしてそれは祖母も同じ状態で、毎日嫌な事ばかりが続いているのだという。なので私は大丈夫なのかと聞かれたが、私は全くそういったことはなく、むしろ絶好調である旨を話すと、「貴女は随分気に入られてたものね……」と呟き、何かあったら連絡してね、とだけ言い残して母は電話を切った。 無理もないとは思った。絶縁していて一切連絡することもなかった大叔母が死んだとたん、大叔母が持っていたあらゆる金目のアクセサリーを集めて山分け、そしてそれをすぐにほとんど売却、正直祟られても仕方がないことではある。自業自得では、という言葉さえも、もちろん直接は言わなかったが喉元までは出かかっていた。 そうはいっても肉親である母がそんな状況に置かれているのは少しばかり不安ではあった。しかし一方で、母や祖母に致命的な何かが起きることがないという確信だけはあった。 なぜなら電話口の母の後ろから、「反省すればすぐに許してあげるつもり、貴方が悲しむ結末にはしないから」という、あの頃と変わらない大叔母の優しい、しかしどこか凄みのある声がはっきりと聞こえたからだ。 祟りというものは、おそらく本当にあるのだろう。しかし、大叔母は本当に優しい人だ。反省さえ見せれば許す、致命的なまでの行動は起こさない、そして祖母や母と違い全てのアクセサリーを大切にしまい、最も大切にしていた琥珀のペンダントを常に身に着けている私のことは守ってくれている、そんな優しい人なのだ。一体どうして、そんな優しい大叔母と祖母は縁を切るほどに揉めたのか、それは今でもわからない。 そして、一番恐ろしいのは私の心なのかもしれない。大叔母から直接解決策を聞いていながら、それを一切母に伝えなかったのだから。 あおたま怪談に戻る ▲ページの上部へ |