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□あおたま怪談 0003

『幸福』



 まったくもって、今の私は幸福とは言えない。しかし、今の私は幸福である。
 矛盾しているように見えるかもしれないが、私の中ではこれは理に適っているのである。幸福とは主観的価値観であるからして、それを判断する私自身が不幸だと思えば不幸であるし、幸福だと思えば幸福である。故に、私は幸福である。しかし、世間に遍く知れ渡る「幸福」の意味に私の境遇が沿っているかと言えば、それは否である。ゆえに、今の私は幸福とは言えないのである。
 果たして幸福に理由は必要だろうか。どれほど苦汁の日々を送ろうとも、全てを失うこととなったとしても、常に孤独で陰鬱な思考が巡っていても、それを不幸と定義するのは聊か乱暴すぎはしないか。私は常にそう思っている。故に、私は自らに降りかかるあらゆる理不尽すらも、人生を幸福にするための要素なのだと信じて疑わない。他人は私のことを愚かだとか狂っているだとか色々に言うが、畢竟、その言葉さえも私を幸福たらしめる要素でしかないのである。私が仮に他人が言うように愚かな狂人であったとしても、自分に降りかかる全てを正面から受け止めて、先の見えぬ暗澹たる闇の中を這いずるよりはきっと良いに違いない。事実私の目の前は明るく開けている。決して闇でもなければ藪でもない。

 しかし、私の目の前にいる女は、おそらくそうではなかったのだ。
 表情には常人には想像もつかぬような疲れが宿り、瞳は虚空をまっすぐと見据え、時折幽かに身体ごと首を捻り、しんと静まり返る部屋の中を、その虚ろな瞳でただじっと眺めている。何を考えているのかなどは今の私は想像できない。少し低いところにいる私を見下ろすようにしつつも、その瞳には決して私を写さず、何もない部屋の壁に視線を向けるばかりである。
 私は彼女のことを知っている。否、誰よりも長く関わってきた人間だ。私が望む望まぬに関わらず彼女は私を常に見ていた。彼女は長い年月をかけ、私を幸福たらしめてきた。彼女のお蔭で、私は常に幸福を得ることができた。まだ幼き私が、幸福とはすべて自分が決定すべきことだと悟ったのも、また彼女の力に拠るものだった。彼女がいなければ、私は今生きる中でのすべての幸福を得ることはなかったであろう。
 ギィ、ギィと、彼女の体重を受けて木が軋む音が聞こえる。暖炉の前で安楽椅子を揺らすかのようなゆっくりとしたリズムで、彼女はゆっくりと体を動かす。何も写していない虚ろな瞳で、彼女は私を一切無視して部屋の中をただぼんやりと眺めている。

 まったくもって今の私は幸福とは言えない。しかし、今の私は幸福である。
 傍から見れば、私は極めて不幸なのだろう。今この瞬間における私は、おそらく世界で一番幸福なのだと信じて疑わない。それは私が長年思い込んできた幸せではなく、心から、今すぐに踊りだしたくなるほどの幸福なのだ。
 そう、私は真に幸福になったのだ。幼き頃父に連れられてこの女に引き合わされて以来、私の人生は苦痛の日々であった。人としての尊厳はなく、衣食住もまともに確保されず、忙しき父の目が届かぬ場所では考えうるあらゆる暴言を浴びせられ、父や他人の見る前ではそれを感じさせぬ表面上の優しさを押し付け、そして、私の人格を曲げてきたこの女。それが、今私の前で、一本のロープにぶら下がってぐるり、ぐるりと回っている。そしてその理由は、私が幸福でありすぎたことに他ならぬのだ。
 ここ数年、私が塗り固めてきた本来の感情への恐怖を日々感じ、私が微笑みかけるたびに化け物でも見たかのような悲鳴を上げていた。いつしか彼女は私を避けるようになったが、無論、私は幸福であるので彼女を避ける理由が無い。毎日幸福を感じながら挨拶をし、外出する時も帰ってきたときも幸福を感じながら彼女に微笑みかけ、寝る前にも幸福を感じながら挨拶をする。そのたびに彼女は恐怖していた。しかし、果たして何を恐れていたというのだろうか。まるで、いつ私に復讐されてもおかしくないと思っていたかのように――。

 梁からぶら下がったままの彼女を一瞥し、私は踵を返す。不思議なものだ。私を虐げてきた女はただの肉塊と化して太い杉の柱に括りつけられているだけとなり、私は無理に幸福を感じる必要もなくなった。仮初の幸福ではなく、本当の幸福が訪れたはずだった。なのに、私は少し冷静になった今、不幸だと感じているのだ。
 私はきっと、彼女を狂わせることを幸福と感じていたのだ。だからこそ、日々の一般的な不幸も幸福を生み出す要素だと思っていたのかもしれない。そうして完全に彼女が狂い、こういった結末を迎えてしまった今、私はもう、幸福を生み出すことはできないのだと、そう気づいた。
 私はふと鏡を見る。そういえば、私はいつから鏡を見ていないだろうか。改めて自分を見てみると、ぼさぼさの髪のままの男がそこにいる。その表情はひどく不自然なまでの笑顔で、服は首元が伸びきってしまっている。まるで浮浪者のような風貌の自分に驚きはしたが、それ以上に驚いたのは、私の背後に憤怒の形相を浮かべた「私」が立っていたことだった。

 彼女が恐れていたのは私ではない。私が封じてきた感情によって生み出された、私の亡霊だったのだ。



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