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□あおたま怪談 0009

『鳥葬』



 枯葉がひとつ、頬を掠めるように風に踊りながら地に落ちる。虫に食われ、潤いを失い、枝にしがみつく事さえ出来ずに散りゆく姿は、実に儚いものだ。枯葉に意思があろうはずもない。しかし、枯葉は悲し気に映るのだ。
 果たして、悲しいのは枯葉なのだろうか。否、悲しいのは私なのだ。虫に食われ、潤いを失い、枝にしがみつく事さえ出来ずに散りゆく姿に、私自身を見ているのだ。故に、枯葉は悲し気なのだ。枯葉は私自身で、私自身は枯葉である。悲し気な私を写す形代なのだ。

 思えば、私の人生は孤独であった。生まれてすぐ両親を亡くし、形式上は祖父母に引き取られ、しかし実質は日々疎まれ続け、生まれたことさえも否定するかのような生き方を強いられてきた。大人になって自由になり、祖父母の家からも逃げ出した。しかし、私は変わらず孤独であった。孤独であることを強いられ、孤独であることを当然として生きてきた。そんな人間に自由を与えたとて、他人との関りなど得られるはずがないのだ。否、得られなかったのではない。得ようとしなかったのだ。私の知る狭い世界の中で、人間とは表裏があり、裏切りを当然とする生き物だ。そんな生き物と、何故積極的に関りを得る必要があろうか。孤独であることは、私の人生において、もっとも正しく、もっとも優れた考えなのだ。
 また、別の枯れ葉が、今度は額の上に落ちる。私はそれを振り払う事はない。重さすらも感じぬほどに全てを失った枯葉の感触が、心地よいとさえ感じる。枯葉は私を写す形代である。ならば、枯葉は私を裏切ることもない。優しく私に寄り添ってくれるのだ。こんな感覚は、私の人生にはなかった。枯葉に埋もれるこの感覚が、私にとって至高の幸福とも言えよう。それほどに私は、人に温かみを感じたことがない。永訣の時を前にして、私はなお、人への執着はない。
 終わりの時が来る。息は少しずつ鎮まり、風のざわめきも、虫たちの声も、全てが遠くに感じていく。ただ一つはっきりしているのは、視界だけであった。高い空には鳶が舞い、近くの枝には鴉が止まっている。それらから隠れるようにして、葉陰には小鳥が集う。ああ、この孤独な人生の終わりに、私はこれほどまでに多くの命に必要とされているのだ。私は、なんて幸せな人間なのだろう。この命が尽きたとき、彼らは私を啄み、糧とするのだ。このくだらない私という存在を糧にして、彼らはこの先の時空を生きるのだ。私は、なんと幸せな人間なのだろう。

 それから、どれほどの時間が流れたのだろう。私の胸は脈打つことを止め、何の音も聞こえる事はない。しかし、どういうわけだろうか。私の身体が生きることを諦めたこの期に及んで、私には感情がある。それどころか、視界がある。横たわり二度と動くことのない身体に留まり、私は閉じることもできぬ乾いた瞳に映る景色を、今もまだ鮮やかに見ているのだ。私は、確かに死んだのだ。しかし私は、この瞳に映る全てを、目を閉じることさえも出来ずに、ずっと見続けているのだ。
 視界に入った鳥たちは、私の身体であったものを啄み、時にそれを奪い合い。私のほとんどすべてを、彼らは食べつくしてしまった。そうして、いま見えているこの瞳だけを残し、彼らは去って行ってしまった。やはり、彼らも裏切り者だったのだ。こうして今、私はほとんど唯一残ったこの目玉の情報を、ずっと得続けねばならぬのだ。全て食いつくしてくれれば、私は本当の意味で救済されたというのに。
 枯葉がひとつ、頬を掠めるように風に踊りながら地に落ちる。虫に食われ、潤いを失い、枝にしがみつく事さえ出来ずに散りゆく姿を目の当たりにして、私は今、枯葉の終わりのある世界を羨んでいる。私には、どうやら終わりが無いようなのだ。死してなお、この瞳が映る世界に囚われている。抜け出すこともできない。目を閉じることもできない。
 一羽の鳶が、上空をぐるぐると旋回している。しかし、降りてくることは決してない。社会から逃げ出し鳥たちの糧となることを望みこの深い森に横たわっておきながら、動くことも出来ず、永遠の眠りに落ちることもできない私をあざ笑うかのように。



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